140.小学校の掃除

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最近1年生の人がちびっ子クラスに増えて、思ったことがある。

このひとたちは、「暮らしていく」ということの全体性を体験する機会が
あまりないのではないだろうか?

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先日、アトリエを始める子がいて、初めての制作と掃除をした。

アトリエでは、掃除を制作と同じくらい重要視していて、
自分のしたことを自分で片付けること、
次の人のことを考えてきれいに現状復帰することを徹底している。

その子は水彩絵の具を使っていて、
初めから巧みに筆を使うことができていた。

掃除の時間になると自分から「どうやったらいいの」と聞いてくる。
ほうきの場所や手順を説明すると
「わかった、学校でもやってるから、おんなじにやればいいんだね」と
その子はほうきを使い出した。

どう言ったらよいのだろうか。
通常ほうきで掃除をするとき、
自分から見て数字の1のように見える向きにしてほうきを動かすのだが、
その子は漢字の一(いち)になっていたのだ。
これでは掃除にはならない。

ここまで極端ではないけれど、ほうきの使い方がわからない、
ということはよくあるので、
こうやってほうきを使うんだよ、と説明した。

うんうん、とうなづいて掃除を再開し始めたその子をみていておどろいた。

動きは完璧にできていたのだが、全くごみを見ていないのだ。
丁寧なレレレのおじさんのようなもので、
ただ動いているだけなので、ごみは集まらない。

ごみを集めてその場所を綺麗にするのが掃除、という
根っこの部分を理解していない、ということだったのだ。
もしくは、頭で掃除がどういうものかを理解していても、
どうするときれいになるかを自分で考えていない、ということだろう。

「。。。◯◯ちゃん、掃除はごみを集めてその場所をきれいに
することだから、ごみがどこにあるかを自分で見て、掃いて集めるんです。
そうやってごみを減らしてきれいにするんだよ」

その子はこくん、とうなづくと、再び掃除を始めた。
制作中とは全く違って、糸の切れたマリオネットのような動きだが、
とにかくやっている。辛抱強いひとなのだと思う。

そうこうしているうちに一応、自分でごみがないかを探して、
それをちりとり担当の子のところまで持っていく動きだけは出来始めた。
しかし、今度は床にほとんどごみがない状態になって、
皆が雑巾掛けを始める頃になっても律儀にほうきを動かし続けているのだ。

「。。。◯◯ちゃん、掃除はごみを集めてその場所を
きれいにすることだから、自分でごみがなくなったな、と思ったら
やめていいんですよ。
もしかして、いつもは学校の先生が終わりー!って言ってる?」

うん、とその子はうなづいて、ほうきを片付けに行った。

学校では掃除を「やらせる」ことはしているのだろう。
でもそれは、掃除という名の「ほうきを持ってなんとなく動く時間」で、
「『自分で』ごみを集めてきれいにする行動」ではない。

なぜそれをするのか。
実際にはどうやると良いのか。

理由や結果は伝えずに、自動的に「ただやらせる」ことは、
その子のそのほかの部分に何の広がりも持てないし、応用もきかない。

ごみがなくなっても床を掃き続けるその子を見ながら、
なんとも言えない気持ちになった。

実は、その子に限ったことではなくて、
「汚いから」と絵の具で汚れた雑巾が絞れなかったり、
そもそも握力が弱すぎて絞れなかったり、
他の子とやりとりして自分がやることを交渉できなかったり、
自分の状態だけを優先し、
ちょっとでも誰かが自分の持ち物にぶつかったりすると
「あやまってよ」と言い続けるわりには、
自分は床に寝転がって掃除を全くしないなどなど、
掃除ひとつとっても見えることが色々あるのだ。

アトリエは学校と違い、成績がつくわけではない。
だからその子の素の状態が現れる。
だからこそ見えることがある。

ちびっことの会話の中で見えてくるのは、
例えば宿題をやらせる、とか、
「行きたい学校のために勉強させる」とか、
「学校のルールを守らせる」ことには一生懸命だけど、
もっと根っこの方にある、誰かとやりとりすることで自分の振る舞いを学んだり、
生活するのに必要なことができたり、
ということを相当おざなりにしている周囲の大人や学校の姿だ。

もちろん個人差はある。自分も大人だし、学校で長く授業もしているから、
学校の先生方がどんなに忙しいかも痛いほどわかっている。
そして大人はみんな忙しい。お母さま方に至っては
「どうやってやりくりしているのだろうか」と思うほど
タイトスケジュールの中を毎日過ごしている方がほとんどだ。

でもあえてここは主張したい。
あんまりはっきり主張することはないのだが、これは強調して言いたい。

暮らしをおろそかにすること、
私たちは生き物だ、という大前提をおろそかにすることは、
ちびっこの可能性を狭め、彼らを打たれ弱くする。
断言できる。
17年アトリエをやってきて、ちびっこの様子を見続けてきた上での感想だ。

去年、2016年から学校の健康診断で「四肢の状態」という
健康診断科目が増えたことをご存知だろうか。

まっすぐ立っていられないで体が揺れてしまったり、
しゃがめなかったり、同じ姿勢を続けられなかったり、
「自分の意思で自分の体をコントロールすること」ができない子が増えたためだ。

特定の特殊なスポーツをすることで全身の運動感覚のバランスが崩れている子も
多いのだと言う。

スポーツが悪いのではなくて、毎日の中で様々な要素を「自分で」考えて、
身体を動かす体験が少なすぎるのだ。

洗濯物を干したり、欲しい形の箱を作ろうとしたりといった、
実際のものに触れながら手と頭を同時に使っていくことが少ないのだと思う。

ひとは生き物なので、使えば鍛えられる。
腹筋をしてお腹の筋肉を鍛えるように、
全身の感覚も、全身を自分の意志で使うことで整っていく。
その時間が少なすぎるのだ。

お母さま方には、ちびっこにどんどんお手伝いをしてもらうことをおすすめする。
これは昔風の「お手伝いをしたほうがいいよ」という話ではない。
AI等「自分で」考えて動くことができるものが激増している今だからこそ
考えて欲しい話だ。

どんなにたくさんの「体験の記憶」があっても、
それを組み合わせることができなければ、
バラバラの「体験の記憶」を並列して持っているだけになってしまって、
考えることのバリエーションが限定されてしまう。
何かあった時も、違うものの見方ができづらいので打たれ弱くなる。

普通にお皿を洗ったり、掃除をしたり、料理をしたりといった、
「生活すること」ができるようになることの、
切実な大切さを、ぜひ、考えてほしいと思う。